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〔東日本大震災〕 あれから10年、あの日、何をしていましたか? 2021年3月11日 自分は1泊2日の東京出張2日目に地震発生で帰宅難民となり、その時の状況はテキストファイルとして残していたのだが、被災地の方々の艱難辛苦に比べるとあまりにも軽々しい内容で、家族や職場以外では語るに語れずであった。10年経って、あの時を振り返り記憶を伝える動きが少なからずあり、それに同調したわけでもないが、それなりに強い衝撃を受けた自分自身の記録としてまとめてみた。震災当日の行動や翌朝の寒さもよく覚えているのだが、12日に乗ったANA羽田富山883便の窓からの眺めが忘れられない。その時の思いは今でも明瞭に憶えている。飛行機が離陸すると美しい日本の国土が見渡せ、大震災や大津波が夢か嘘の様に思えた。富士山やアルプスの山々は人間が何人死のうが助かろうがいつも変わらず聳えているのである。帰宅して家族の安堵した顔を見て、自分に出来ることは自分自身や家族が健康に生活できる様に、小さな身の回りの世界をいつも通りに動かすことしかないと認識。そして、災害の度に思い出す良寛様の言葉、「災害のときは災害に逢うが宜しく候」である。 ▼3月10日(木) 1泊2日の東京出張。富山駅構内に入ると平日の朝6時半なのに撮り鉄がちらほら。明日で北陸本線から引退する419系(583系改)が入線していた。北陸で顔をぶったぎられ何とも可哀想な姿に成り果てたが昔は憧れの寝台特急であった。さらに、明日で国内通常運行ラストとなるキハ58・28系まで居た。キハ58が国鉄急行「ひめかわ」として現役だった学生時代は帰省時によく乗った。まだ電化されていない越後線で、内野から新潟駅に出ることなく直接西に向かえたし、終着の青海駅で富山行きの普通列車に連絡しており、特急利用と乗車時間はそう変わらなかった。はくたか1号に乗るとすぐに車内アナウンス、上越線のトラブルでほくほく線経由の越後湯沢行から信越線経由で長岡行に変更、東京着は30分以上遅くなるものの、おかげで久々に上越〜長岡の車窓からの景色を見られた。中越沖地震の爪痕残るも、柏崎の海岸や長岡の山間の景色は何とも懐かしく、はくたかにこのまま第二の故郷である新潟まで走ってくれないかと・・・時折響く汽笛もエレジーの様だった。 東京は馬鹿陽気でスギ花粉大量飛散中、鼻水爆流+目の痒みが酷い。中央線四ツ谷から丸ノ内線で赤坂見附へ、出張初日は主目的の東京支社のLAN設備更新、10年物の古い10メガHUBやら勝手増設の小型HUBの撤去更新、LANケーブルもカテ5eに更新、ツメ折れた端子の更新圧着やらと意外と作業多し。後片付け後、N部長にコールドスタンバイのレクチャー&細々した相談に応えつつ、ちょうど東京出張してた別部署の社員と一緒に誘われた会食を断って、午後6時前に支社を出る。見附から赤坂を少々ぶらつき千代田線で日比谷、アートスポーツ日比谷店でシューズ物色、買うなら明日でいいかと冷やかしだけ。八丁堀の常宿泊。 ▼3月11日(金) ゆっくりの朝食後、10時ちょい前チェックアウト、京葉線で新木場駅、りんかい線で国際展示場、ビッグサイトでセキュリティショウ、昨日の作業の予備日を兼ねてオマケで付けた用事ではあるが、折角の上京で見聞広めることは悪い事ではない。ICカードや携帯電話使ったハンズフリー入退館システム、暗視化やHD化またIP化された監視カメラ、これらを統合した中央監視等の情報収集。午後早々に切り上げ、移動を除けば2日間の予定は終了。移動販売車の弁当で昼食安上げて、東京駅へ移動。帰りの新幹線まで2時間ほど。荷物を職場の携帯からコンデジの果てまでぜんぶ東京駅のコインロッカーに預け、有楽町駅から日比谷へと向かう。 ▼3月11日(金)14時46分〜 急に眩暈を感じ足元がふらつく気がした。が、周囲の悲鳴で眩暈ではなく地震の揺れと気付く。揺れは一気に強くなり、信号機や街灯の支柱が有り得ない角度で左右に振れている。足元を見れば地面が波打ち、踏ん張って立っているのが精一杯でまったく動けない。オートバイから降りて必死にバイクを支えている人もいる。足元ではアスファルト舗装とコンクリートの継ぎ目が開いたり閉じたりしている。とても長く感じた揺れが収まってから建物の無い皇居方面へと急いで避難する。 皇居上空には沢山の鳥鳥鳥…、こんなにも皇居に鳥が棲んでるのか。パトカーや白バイがサイレンを鳴らし走っている。丸の内の建設中ビルのてっぺんでクレーンが大きく揺れワイヤーが不気味にゆっくり大きく振れている。東側の海岸方向では火災と思われる黒煙が立ち上がっている。状況を知りたいが職場のワンセグ付き電話はかばんごとロッカーの中、持っているのは電話機能しかない個人携帯・・・。ワンセグTVを見ている人に聞けば、東京の震度は5強、てっきり東京直下地震と思い込んでたが、震源は宮城沖とのこと。各地の様子は不明。報道のヘリが何機も飛び始める。余震の危険もあり、しばし待機。 日比谷公園へ移動。オフィスビルから避難して降りてきた人々、地下鉄から出てきた人々で溢れており、身動き取れないほど。何とか有楽町駅に戻るも当然JRは運行停止。弱り目に祟り目で雨が降り始めたので交通会館に入り雨宿り。ビルの中で東北の太平洋沿岸に巨大津波襲来を初めて知る。階段や廊下で座り込む人達、何度か余震があったが、雨が上がるまで待ってから東京駅へ徒歩移動開始。 ▼16時半頃〜 歩きながら色々想像してしまい、東京駅には八重洲のオフィス街から遠回りして向かう。富山に戻れないことを想定し、明日昼までの飲料と食料をコンビニで確保。この時まだ商品は十分にあった。ミネラルウォーター、スポーツ飲料、野菜ジュース、缶コーヒー、チョコレート2箱、ウイダーインゼリー2個、ドーナツ2個。さらに食える時に食っておくべく、ファストフード店で親子丼大盛。身体が冷えており味はともかく温かい食べ物が有り難かった。しかしこの店も被災しており床は水や割れた卵が散乱、そしてすぐに閉店、自分が最後から3番目の客であった。 東京駅はやはり大混雑、構内ではJR・地下鉄・私鉄全線運休を繰り返し放送。新幹線は終日運休確定とのこと。八重洲地下中央口のテレビに黒だかりの人、映像の凄まじい津波に呆然、何だこれは。福島第1原発のトラブルも初めて知る。被災地を想うが自分が出来ることは何一つ無く、それよりまず今日明日の行動を考えねばならない。コインロッカーの荷物を回収し携帯メールで家族に無事を送信。今夜泊るホテルが無いか電話しようにも輻輳状態で電話が使えず。富山でこちらの徒歩圏内のホテルに空き室が無いか調べてもらうことにする。しかし、出張者や旅行者のみならず都民も帰宅不能でありホテル確保は無理と判断し、ホテル探し不要とメール(しかしこれ以降のメールは翌朝まとめて届いたとのこと)。 ▼18時頃〜 支社がある赤坂見附まで歩くかそれとも新幹線が明日運転再開する前提で一晩東京駅近辺で過ごすか考え、駅に野宿に決定し、防寒用にミズノショップでジャージ上下購入、本屋で一晩の時間潰し2冊購入。八重洲地下街の東端に電源コンセントのある催事エリアを発見、野宿場所もここに決定。今朝ホテルで貰った日経新聞を敷いて座り、ノートPCを充電しつつUSB経由で携帯電話も充電。電話は相変わらず輻輳で使えなかったが、Mopera経由でインターネット接続できたので、VPNで社内LANに入り、上司に無事のメールを送信。この後、約30分毎に構内放送で交通機関の情報が流れるも一切の希望を持てず。家族が読むかもしれないとWeb日記に次の文言で投稿。 「20時現在、東京八重洲地下街に居ます」 「16時12分のMAXときで帰る予定でしたが大地震で列車がJRどころか私鉄も地下鉄も完全ストップで東京駅から動くに動けません。東北地方はとんでもないことになっている様ですが、情報収集できず様子があまりわかっていません。とりあえず今夜は地下街のホームレスです。とにかく無事です。」 見知らぬ方が自分のPCで携帯を充電させて欲しいと横に来られ、USBケーブルを挿してあげる。御礼にと缶チューハイを買ってきて下さる。コンビニの棚には飲料も食品も何も無く酒類しか残ってないとのこと。先に確保しておいて正解であった。頂いたチューハイは流石に飲む気分になれず、近くで宴会状態になってる方々に差し上げた。 ※後日知ったが、携帯サイトの列車運行情報では当日ずっと運行休止となっていた(あるいはそう思い込んでた)東海道新幹線は、20時過ぎから本数を減らし速度も落として運転再開していたらしく、これが分かっていれば東海道経由で帰っていたと思う。当然であるが列車は大混雑で立っての乗車が多く、早い列車でも新大阪には深夜0時頃に到着した様で、翌日の空路とどちらが楽だったかは分からない。 ▼21時頃〜 メトロ銀座線、半蔵門線が動き出す見込みとの放送。支社への移動を一瞬考えるが、誰か残っているか確認しようにも電話使えず、行ったら行ったで明日はまたここに戻らねばならず…で、このまま待機を決め、スーツの上からジャージの上下を着込み、その上にコートを着て横になる。まさにホームレスである。22時頃に地下街飲食店の店員の方々が段ボールを多数持って来て下さる。新聞に比べると段ボールの何と暖かなことか。眠ってるような眠ってないような状態が続く。 ▼3月12日(土)朝4時頃〜 昨日から何度も届くNTTドコモの緊急地震メールに東北方面ではなく「新潟」の文字。新潟で地震発生、すぐにワンセグで確認。十日町と長野の栄で震度6。どうなってるのか日本沈没するのかと本当に不安になってくる。ともかく上越新幹線+ほくほく線で帰るのは絶望的 となった。東海道新幹線で米原あるいは京都経由を考えねばならない。焦ってもどうにもならず、とりあえず昨日買ったドーナツやら野菜ジュースで腹をこしらえる。ANAの携帯サイトを見れば、羽田富山便は正常運行予定とある。16時前の887便に空席が1席ありすぐに予約する。 何とかして羽田空港までたどり着けば富山に帰られそうであるが、モノレールの携帯サイトでは運行予定未定、京急も運休の情報。バスに望みあるかと空港行きバスの状況を知るべく活動することにする。5時、一晩世話になった段ボールを畳み、ゴミを拾って地上に出る。まずは空港行きバスの停留所に行くも無人で「運休」の表示。仕方なくタクシー待ちの長蛇の列に並ぶ。列は伸びる一方でなかなか進まず、夜明け前はとても寒い。NHKのSNG中継車のカメラがこちらを向いている。 6時前にもう一度モノレールの携帯サイトをチェック、通常運行となった。浜松町はここから4kmほど、荷物ゴロゴロ引き摺って歩いても1時間強あれば着くだろうが、タクシーを待ち続けるのとどちらが良いか判断できず、そこにJRは7時頃から運行再開の見込みとの情報、飛行機は夕方の便であり、無理にタクシーに乗らずとも良い。JRの運行待ちつつタクシーも待とうの結論で、列の前に並んだ我孫子に帰る老夫婦と会話しつつ、6時40分にタクシーに乗り浜松町へ。冷え切った体にタクシーの車内の暖かさが有り難かった。 ▼7時頃〜 浜松町7時10分頃発のモノレールに乗り、羽田へ。列車内でANAの携帯サイトで空席を再度調べれば9時10分の883便に空席が2席、即予約する。これで午前中には富山に帰られると安堵するも、被災した方々や未だ東京駅で過ごす人々を思うと、自分だけ抜け抜けと浅ましく安全地域へ脱出している様で自己嫌悪。とは言え意外に冷静なもので、自分の荷物に飛行機では運べないものがあると気付き、機内持ち込みできないダストスプレー、ドライバーやペンチにカッターなどの工具類、さらにビッグサイトで集めたリーフレットや書類を一緒に紙バッグに入れ宅配便で送ることにする。ついでに着ていたジャージを脱ぎ(周囲の客がびっくりしていた…下はスーツです)これも同梱する。 羽田空港に着くと今まで見たことも無いキャンセル待ちの長蛇の大行列。この列に並ぶことなくモノレールに乗りながら携帯サイトで空席をチャチャッと確保した自分がとてもずるい人間に思えてくる。とりあえずヤマト運輸のカウンターに行けば「荷受停止」、日通改め日本郵便は「期日指定無しで荷受可」で無事荷物を託せた。883便の航空券を買い887便をキャンセル、荷物を預け搭乗手続きも済まし、本当に安堵、空港の暖かさに気付いた。床で寝るなら駅より断然空港だと認識、でも海が近いので津波は怖いか。 兎に角椅子に座りたく早めに搭乗ゲートへ。相変わらず富山便の乗り場は端のそのまた端である。ホットコーヒーを買って椅子に座ると身体が椅子に沈んでいく気分であった。周囲を見渡すと、森市長や野上参議院議員。五万石の安井社長と話し込んでいるのは最近ランニングを始めた職場の役員Tさんであった。Tさんは883便は出張の予定通りで昨日は品川に泊まったとのこと。 ▼富山 883便は10分遅れで出発。震災が嘘の様な好天で、上空からは富士山、八ヶ岳、南アルプス、中央アルプス、松本平、御岳、乗鞍、北アルプスと美しい日本の国土を見渡せた。富山に到着し、自家用車だったTさんにJR富山駅まで送って頂く。11時少し前、富山駅で使えなかった帰路の乗車券を払い戻す。地鉄で一旦帰宅。家族に無事な顔を見せ、着替えてすぐ職場へ。しかし職場で自分に出来ることは僅かなもので、それらを終えて再び家に戻った。ようやくテレビの前に座って見られた大津波の映像であったが、あまりにもあまりでまじまじとは見つめられず、涙しながら何度も目を瞑った。BBCでは日本は第二次大戦以来最大のダメージと放送したとのこと。この日の夜は、横になってもまだ八重洲地下に居る気がして何度も目覚めた。 |
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| ▼3月10日(木) | ||
| ▼3月11日(金) | ||
![]() 移動中に見たTV映像のイメージ |
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![]() 同左 |
| ▼3月12日(土) | ||
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以上が、自分のあの日である。本当は書きたくても書けないこともあるのだが、それは自分の心の中でだけ…。なお、帰宅困難となり出張が1泊1日増えただけで被災はしていない。しかし巡り合わせなのか、何故か県外に居る時に大地震が発生する。2004年10月23日の中越地震時も東京出張、この日は帰りに1本列車を早めたおかげで直撃を免れた。購入当初の切符は脱線したとき325号、それに乗っていれば越後湯沢で下車のため脱線には遭わないものの当日の帰宅は無理であった。地震発生時は乗車した特急はくたかが直江津〜糸魚川間で暫く停車、少々遅れただけだった。2007年7月16日の中越沖地震では地震前日に妻子とズバリ震源地である観音崎近くで食事をとっており、地震発生時には新潟市に居て救われた。とは言え帰路の国道8号と北陸自動車道ともに通行止となり、延泊&群馬長野白馬からの大迂回で戻った。東日本大震災後では、2014年11月22日の長野県神城断層地震には家族5人で上諏訪のホテルで遭遇、翌日は白馬経由で帰宅予定であったが国道148が崖崩れで通行止、安房トンネル経由で戻った。この様な幸運が続いているが、全くの無事では無いものの、災害が他人事では無いそれなりの経験は記憶として大切にしたい。 >HOMEに戻る|>戻る |
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